2009年11月16日

005・書物の中の風景【雨の場合】

Bookfile regen・003
『所轄刑事・麻生龍太郎』
□柴田よしき/2004年3月別冊小説新潮「警察小説大全集」、2005年週刊新潮、ウェッブ電子書籍配信サービス 等初出
□新潮社/2007.1.30. 本文280p/1,500円 ISBN 978-4-10-471102-4 C0093

 冬の(我々的)風物詩、D楽団の練習に行っている街は、東京の「東側」ということになっている。なぜならこの楽団「D」は、唯一といってよい(ロシアではなく)旧ソ連の作曲家であるショスタコーヴィチを演奏するためだけに集まり、18年間活動を続けてきている人々なのだ。東側、というのは意味をいろいろ掛けているわけで、実際は“東京23区の東方面”つまり「隅田川よりも東側」を指す。
 実は私は以前、このへんに住んでいた。
 最初築いた家庭を捨てて、1人暮らし。仕事(だけ)が人生の連れ合いだった時代。隅田川を西に越えた処の、急激な成長を遂げつつあったIT企業に、東側から川を越えて通っていたのだ。
         ・・・
 そうして、偏愛している作家・柴田よしきによって生み出された刑事・麻生龍太郎シリーズに手を染める。自身の若い頃の失策によって冤罪に落とされ、将来を奪われて罪に落ちた現在の恋人・山内練と、職務や正義感との間で。ヘビーな人生を(しかも淡々と)送る麻生警部補の人生に翻弄される読者の手許に、まるでプレゼントのような短編集、『所轄刑事・麻生龍太郎』はやって来た。
 此処に出てくる彼が若き日に赴任した所轄は、私が以前、住んでいたその地域にほぼ半分くらいが引っかかるのだ。

 犬をジステンバーで死なせてしまった幼い男、植木鉢の連続破壊事件があった門前仲町の通りは(『大根の花』)、線こそ都営新宿線/メトロ東西線と異なるものの、以前、私が住んでいたあたりであり一時的に住所を置いていた。麻生が入っていった路地を入らずに反対に行けばたぶん、そっちの方だな、など彼らの足取りを後ろから一緒に歩くような気になる。そこはまさに“門前”街で、昔ながらの煎餅やみやげ物が売られている。あのあたりの雰囲気は関西から来た私には“とても東京・お江戸”で、とても好きなのだ。
 彼(麻生)の務めていた高橋(たかばし)署。
 実際、そういう交番は無い(無いからその名を取ったのだと思う)のだが、我々が主として練習場にしている場所は、その「高橋商店街」の中にあるのだ。地下鉄駅からは少し遠いが、もともとこのあたりはバスと河川(運河ですね)の沿線に発達した街で、鉄道の線と商店街の位置がまったく一致しない。もちろん埋立地に明治以降(場所によっては昭和になってから)できた町だから、歩いても距離はさほどではなく、下町といっても台東区の方の昔ながらのお江戸とは雰囲気と異にする。

 高橋商店街は現在、「のらくロード」と呼ばれていて、街のシンボルとして「のらくろ」の絵が掲げられ、その画などの展覧会も行なわれる。また映画の街でもあり、小津らに縁のある場所でもあった。
 著者が土地勘があるかどうかは別として、そういう意味合いでこの地を舞台に選んだだろうことは想像に難くない。商店街の裏を2本も出れば運河に出て運河は一部が公園になり子ども達が水遊びできたりもするし、遊歩道として整備されているものもあれば、延々と水と湿地のつながる治水場として
残されているものもある。また、隅田川の支流として残された場所には、なるほど浮浪者が寝泊りする公園もあり(『割れる爪』)、だが平和裏に日々が過ぎていく下町である。

 犯罪率は高くない。だが、空き巣や殺人も起こらないわけではない。
土曜日にこの地域に足を踏み入れるたびに、30代前半のしんどかった時代に自分自身のいた東京として、あの作品は身近にも感じられた。
隅田川を越えて、会社に通っていた。神田の出版社時代、そして浜町・箱崎の某社時代のことだ。10年くらい居たはずだが、私自身の東京の記録は、ほぼ新宿より北西に限定され、下町“東側”時代は記憶に遠い。

 なんてことを、ふっと思い出したのは。作中の新米刑事が、のちの時代にどういう存在になっているかをすでに知っている読者であるから。若い日の、ある時間が、その土地の上に固定されているような気がして。空気と、時間と、色までが共に。事象と共に固着されている。

 優れた作家の作品というのは、時代と地域の“空気をまとっている”。柴田さんはおそらく地元民ではないと思うが、だからこそ見えるものがありそこに父親を殉職で無くした麻生母子が、ひっそりと、だけど逞しく生きていた様子まで、目に見えるような気がした。
 縦軸に事件を取り、秀逸なミステリの体裁を持ちながら、横軸に流れるのは新米刑事・麻生の高い能力の萌芽と、一方で自らの内的感情との折り合いがつかずに悩む青年の姿。
 思えば彼の“逃げ”も、狡さも、この時代から始まっていて、なのに何故、(自分も含め)彼は人に純粋な好意や愛情を捧げられるのだろう、と。そんな魅力の詰まった短編集である。同性愛に抵抗が無い人は、どうぞ(そういうシーンは出てきませんが)。 [雨]


posted by alto2009 at 23:16| Comment(0) | 本に纏わるよもやま話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月15日

004・書物の中の風景【歩の場合】

Bookfile po・002
□あさのあつこ氏の物語との出逢い

 私が『バッテリー』という本を初めて手にしたのは、もう7,8年前の事になる。地元の小学校で図書室ボランティアなるものをしていたときのことだ。
 私はそこで、PTA費で古本を購入し学校の図書室へ寄付する、という活動をしていた。
 児童書などそれまでほとんど読んでいなかったので、読み聞かせの活動をしていた人たちのオススメや、ベストセラー、売れているといわれている本を購入していたが、寄付する前にとりあえず一読しておくのは必然であろう。

 そういう経緯で手にした本だったが、私は最初の数ページを読んで
ぐぐっと引き込まれたのである。
 理由は「この舞台は、ここだ!」と感じたからである。

 そこは、夫の転勤で訪れた土地ではあったが、そこで2人の子を産み育てた私には、かけがえのない場所となっていた。結果としては、「中国地方・中国山地」という大枠でしか同郷ではなかったのだが、
物語から立ち上る風景は、鮮やかにそこに存在していた。
 穏やかに続く山並み。僅かばかりの平地。樹木。青い空。人。言葉。付き合い。

 そして、著者がそこを物語の舞台に選んだことは必然であったと感じた。
 都会ではない。関東のような、大都会の周辺の土地でもない。“神の住まう土地”といったら少々大袈裟ではあるが、人工的ではない、かといって、人の住まない自然だけの土地ではなく、自然と人間が共存する土地でその物語が紡がれることに、私はひどく納得できたのであった。

 主人公たくみ、と祖父の会話。
 風景描写が醸し出す雰囲気。

 それが、私とあさのあつこ氏の物語との出逢いであった。そして、以降、私は彼女の物語を読み続けることになるのである。

『朝のこどもの玩具箱』/あさのあつこ
『神々の午睡(うたたね)』/あさのあつこ
『夢うつつ』/あさのあつこ
 読中。
posted by pothos at 17:37| Comment(0) | 本に纏わるよもやま話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする