2010年07月20日

009・要するに恋愛ものなのだ(!?)

Bookfile regen・005
『1Q83・book3』
□著者 村上春樹
□新潮社、2010年4月発行/1,995円/ISBN9784103534259
 
▼2010年4月23日(金)に、某blogに(途中まで)書いた記事の転載です。ご了承ください。

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[タイトル]…と、言い切るには抵抗がありますが、ともあれ、あっという間に読み終わった『1Q84』(3)であります。

 いろいろ考えさせる、議論の余地をたくさん持たせる、ということではムラカミハルキという作家はなかなか類を見ない。いやまぁほかのヒトビトもそうなんでしょうが。読んだあと、つい語りたくなるんでしょうね。
 この作品はちらと書くと最初から“ネタバレ”では始まりそうなので、発売1週間後だったこともあり、感想めいたことはほとんど書かず仕舞いになってしまいました。
 ただ、友人たちは三軒茶屋にかかる首都高速道路の橋をタクシーで通ってみようとか思った人は何人かいたようですが、あそこ、本当に渋滞しますよねぇ。もしかしてそれであのネタ、作者は思いついたんじゃないか、というくらいです。……私は、そもそもそのあたりを車で通る時は基本的に夜中ですし、方向の違う虎の看板とか立ってたらヤですから(まぁ時代が違いますけど)、ぶるぶる。避けます。怖がりです。

 さて購入した翌々日の夜。夜中までかかっても読み終えようとしたのは、3分の1まで進んだら、あとが気になって仕方なく、つまりその程度には面白かったわけ。ともかく週末に向かうことだし、木曜日の夜くらい夜更かししたって構わないだろう、ということで、本を持ってベッドに入ったのだが、昼間から眠くて眠くて&演奏会で眠いショパンを聴いたりしたため、風呂にも入らず昏倒するように眠ってしまった。気づいたら本を抱えたまま朝で、午前中は自主的におサボりして一気に読破した(自営業の気楽さ)。

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 ところで、発売当日の土曜日。某駅上の書店に私は『竜馬』(7)を買いに行った。(7)は無かったので仕方なく、どど〜ん、と積まれていたこの本を手に取り、迷った末、購入。まぁbook1もbook2も読んでしまったし。どうせ次の編集仲間の会合には話題になるかもね(<ならないかもしれないけど、文芸の編集者ばっかりの集まりなので、時々こういう話題になることがあります)というミエもあり、読んでみることにした。
 脈絡ないが、ベストセラーを金払って買うのはなんかヤだなと。妙な処で物書きの端くれないじましさが出ることである。

 会計をしていたら週末なのでヒマそうにしていたおねーさん書店員2人と少し雑談。「あ〜んなに積んじゃって売れるんですか?」と訊ねてみると、「まだ土日ですからねぇ」と年配の方のかたが仰る。そうかぁ、月火にならないとなんともですね。…さて売れたんでしょうかしらね?
 それで「どちらがいいですか」と差し出されたぬいぐるみを見る。は? という顔になっていたと思うが、「獏ですか?」というと「犬です」という。「今、うちの書店で『1Q84』をご購入のお客様に差し上げています」とのこと。ほえほえ。A屋書店さんのグッズなの? ほえ?
 “ドリドリ”ちゃんというそうです。本を読む犬。う〜む、SNOOPYみたいぢゃないか。…ありがたくいただいて帰って、パソコンの上に乗っかっている。そういえばいろいろ乗っかっているパソコンだ。一番気に入って居るのはパソコン誌時代に貰った「モジラ」ちゃん(<現在はFirefoxというNetscapeのぬいぐるみ)だが。

公式サイト(新潮社) まで立てている力の入れぶりは、素晴らしい。

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 80年代に流行った『ノルウェイの森』は装丁の見事さもあって棚に飾っておくのが流行った(どのくらいの人が読んだかは不明)。だがこの1Q84は面白い。私は単純に面白かった…と同時に、こういうオーソドックスな恋愛小説かつエンターテインメントが売れる、ということは、まだ小説や本に希望があるのではないか。そんな儚い光を見る。ムラカムハルキという作家というブランドに、だし、それは書かれたものそのもののある種のノスタルジー&古さにである。
 昭和30年代。「善かった時代」。高度成長期。いまよりずっと貧しく、だけどずっと未来が信じられた頃。だがこの登場人物たちは最初、未来を信じられる場所にいなかったんだね。それが時代から、場所からはみ出され、そうして別の場所に移されて、最後は【自分】や【対の自分】と出会うことで、手に掴み取っていく。
 (2)で終わってもよかった。知り合いの編集者'sの間では、「続きはあるだろ/ないよ」で意見が別れた。どちらでもよかった。文学的さ、からいけばあそこで終わった方が高級だろう。だが現在の物語性への欲求を考えると、何か救いまで持っていかないと終われなかったのではないかと思う。
 もちろん、(3)があってくれて、【ある種の】ハッピーエンドでホッとする。結局は、恋愛の話なんだ、と断じるのはキケンだけれども。それぞれが「卵」を抱えられるといいのになぁ、と空に一つかかる月を見上げるわけだ。さて、次は何年後にどんな物語が読めるだろう。[雨]

 


posted by alto2009 at 22:32| Comment(0) | 現代作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月01日

002・そして森田透はどうなったか。

Bookfile regen・001
『ムーン・リヴァー』−TOKYO SAGA−
□栗本 薫/2008年2月脱稿
□角川書店/2009.9.25. 本文272p/1800円 ISBN 978-4-04-873982-5-C0093

 栗本薫の遺作だという。角川、早川の二社合同企画というから何かと思ったら、もう1冊は『嘘は罪』上下巻で、この作品にも出てくる作曲家・風間俊介が、“ここまでたどり着くまで”を描いている(らしい)。それまでの同じ登場人物群を巡るJUNE系作品の読み手の中には、同作品を酷評する人もいるので、(というのかまだ書店で見かけていないので)手にとってはいない。『ムーン・リヴァー』を手に取ったのは、ビジネス系書店で店頭に並び、そのやはり天野さんの表紙の美しさ(だけではないが、装丁全体が好きだ)に目が行ったからだ。手にとって、一瞬、迷う。……これが伊集院大介シリーズだったら、紙の裏側まで読みたいところだけれど(笑)。
 しばらく本の感触を楽しんで(<ってヘンタイですか?)数日置いておく。読み始めたら案外に一気だった。
 作家というのは、自分の病気や苦痛やなにかもネタにしてしまうのだなぁ、などというありきたりな感想は持たなかったが、この一連の物語の決着を付けるのが、島津正彦だというのが、ガンで死んでしまう(直前に病気に負けたくなく自死するのだが)なんともよく出来た魔法という気もするのだが。最初から、森田透、今西良、風間俊介、そしてこの主人公(?)である島津の名にそれぞれ覚えがあったから、「もしかして伊集院センセイのところに何か事件の相談に来たことがあったかしらん?」とも思い、いずれにせよ、栗本サーガの重要な登場人物だろうことは、内容から推し量れた。
 というのも実は、JUNE本誌から始まる(とあとで調べてわかった)『翼あるもの』『真夜中の天使』『朝日のあたる家』は読んでいないのであり、『終わりのないラブソング』でJUNE−Kurimotoから足を洗ってしまった自分には、まったく読んでいない栗本作品が、グイン以外にもあったのか、と驚き気付いて、改めて某ネットショップを流離った。これはかなり、嬉しいことだ。(これから読んで楽しめるからだ)

 そう考えてみると、先にこの“完成品”一作を読んだのは幸運だったのだろう。
 これが俗にいう「BL」やもっと以前の「801」さらに遡って「JUNE」系の一連である、と考える必要はまったくないからだ。“その続き”として読むと物足りないかもしれないし、主人公たちの置かれた境遇と行く先に、物足りなさ/虚しさを憶えるかもしれない、と想像するからだろう。
 (別の話だが、この作中にもあるように、彼女の描こうとする“美しい男”のラインアップ/オンパレード には、いささかついていけないものを感じている。情熱の向ける方向は人様々だから、JUNE的にはもちろん、これで正しいのだが。)
 まったく先入観なく、一つの話として読む。なにせこの686枚中(編集者注だ)、登場人物はわずか四人。島津の家の中だけで終始し、ほとんどが島津−森田の二人を軸に話は進み、島津の盟友・野々村と、森田のもとの敵であった風間が訪ねて来たり訪ねて行ったりするだけだ。……そういった意味でいえば、カテゴリとしてBL、なのか? いや。ノンジャンル、である。


 物語は終始、島津のマンションの中で終始する。
最初の頃、島津が野々村を訪ねていったり、森田が入院してしまったり風間と飲みに行ったりもするから、もちろん部屋の外にも出るのだろうが、読み手は、森田透の視線と感覚を通して、部屋の中に囚われているような感じを持つ。
 森田透本人は、そういう感じはないんだろう。どこへ行こうと自由だし、居ても、居なくても、それも自由。ただ、彼は自分がその世界の一部のように感じており、彼の中でも(自分の)中と外の区別が曖昧である。
 エロ・グロというか、狂気に近くなっていく筆致が冴える時によくあるように、ことはSMの度合いを呈してきて、淡々と描かれるそれをどう読めばいいのかは正直戸惑うが、イヤらしい感じがしないのは、精神的なものが優先されている(それは彼らの中ですらも)からだろう。気持ちの問題、とかそういうことではない。肉体から感じるものがイコール精神に浸透していく、ということで、それは読んでいる者がどこまで共感できるかは別として、客観的に絵として眺めていられるようなものでない。
 ネタバレは厳禁だろうか(上ですでに一部やっちゃってますけど)。
それを避けて書くとすれば、愛の狂気の中に陥って(というか、島津正彦の方は正常に目覚めた=生まれ直して自分が“愛するというのはどういうことか”と気づいただけだし、森田透の方は、自分が知っていたことによりハッキリ気付くだけだが)、互いがきっちり求め合うようになってからの一幕が、とても切ない。
 伊集院大介シリーズにおけるシリウスやら、胡蝶やら田宮怜やらに感じるように、異性である著者が描く、同性への狂気のような愛情の方向性(それもたいていが一方的+相手はそれを受け容れる格好の)は、共感しきれないところもあるのだが、こういう形で、すれ違いながらも双方向なことが珍しいからかもしれないのだ。だからこそ、最初のSMまがい(?)のエロシーンよりも、後半の特になんということもない2場面(書かないけど)がとてもエロティックで、優しい。

 帯にも出てしまっているので、この作品の結末はもう最初からわかっているのだった。時折そういう物語というのがあるが、ではあとは? 生と死に別れるとわかっている二人が、どういう結論を持つことができるのか。作中でも二人はそれぞれに思い悩む。一緒に逝ってしまう、というのは一つの方法だが、森田透には現世に(しかも刑務所という隔離された場所に)囚われている恋人がいるのだ。
 彼はどちらをも取れずに悩むが……読んでいると、「もうあんたは選んでるじゃないか」と言いたくなるわけだ。(それは私が前作を読んでいない所為もあるかもしれないけれども。)
 意外な方法で決着が付き、そうして意外な人物が本当の意味での決着を彼につける。そうして残された彼は……、というところがこの作品の真の表現だったのか、とあとから気付いて、それこそがこれを数多のBLと一線を画しているものにした。というか、最後の最後まで、“そう”感じなかったほどに、普通の作品であり得た。

(ここから、ネタバレ・・・)
 死んでお終いではなく、生きなければ、と感じ(思い、ではない)。はたまたそれに絶望しながらも……生理的現象に「生きなければならないのか」と情けなくなり、涙が止まらない……。これは、一度死に掛けた、死にたいと思った人間が生き続けなければならないと悟る最初の瞬間の、それこそ“絶望”。あまりのツラさに、だけどもう死ぬには手遅れ。……これは実感として身に染みる。いやそうさせる瞬間。
 物語はそこで終わっているが、こういう結末を書いたことを、凄いと思うわけだ。美しく終わらせたのではなく。足掻きながら生きること、それが人の人生だからだ。絶望と、微かな希望と……もはや登場人物の背景はどうでもいいだろう。圧倒的に支持者を持つらしい森田透というキャラクターに、それを残していったことで。栗本薫は、読者の中に大きな課題を投げていった。そうして言っているのかもしれないよね、「生きなさい、生き続けなさい。私はもっと生きたい」――考えすぎだろう。エンターテインメントとして一級だ、というだけの話だ。(男同士の××&SMで吐く人でなければ、)読む価値のある作品…と思う。 [雨]
posted by alto2009 at 16:00| Comment(2) | 現代作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする